アクションマンとして参加していたスーパー戦隊や宇宙刑事シリーズの撮影現場を離れ、新卒で入社した出版社が、読者に感謝の気持ちを込めて自社で編集を行なっていた月刊誌と外注の編集プロダクションが編集していた月刊誌の合同でイベントを開催するという。当然、各編集部が中心となって下準備から当日の運営まで仕切るはずだったのだが……。本来なら僕が所属する営業部は、俯瞰で進行状況をチェック・管理するだけだったのだけど、、両編集部双方から、なかなか途中経過等の報告が上がって来ず、このままだとイベントの開催がままならなくなると危惧した上司から、「大野、お前が直接、運営のサポートに入れ」と言われたので、打ち合わせに行ってみると……。
まだ自社の編集長は、普段も顔を合わせてるし、個人的にも入社以来可愛がってもらっていたのでコミュニケーションがとれていたものの、外注編集長に至ってはほとんど打ち合わせにも来ず、やっと来たと思ったら「この人とこの人が来るので、新幹線の切符を用意して」と、雑用だけ丸投げして去って行くので、何を考えてるのか理解しがたく、なかなかしんどかった。雑用と言えば、他にも警備員や運営スタッフの手配他、細かい作業が沢山あった(切符の手配などの手間のかかる雑務は、自社編集長の番頭さんが手伝ってくれたので、かなり助かった)が、一番大変だったのが、「前夜祭合宿」と称して、本郷にあった修学旅行生御用達の旅館を貸し切りにして、地方からの参加者数百人を宿泊させた事。千人近くの宿泊希望者(往復はがき)の抽選から電話対応(業務時間外の夜中の電話も)、返信作業、宿泊時の受付窓口(宿泊当選していないのに、いきなり旅館に来た人も)、そして、ほぼオールナイトで行なわれる各テーマ部屋での分科会等を経て、そのままイベントの開催会場へ。
それでも当日、イベントが始まってしまえば、それこそ数千人の読者やファンの皆さんが参加してくれ、当時デビューしたばかりの森口博子ちゃんや『宇宙刑事シャイダー』の円谷浩さん、『ウイングマン』の原作者・桂正和先生他、豪華なゲストの皆さんも来て下さり、(司会を小森まなみちゃん&ミンキー・ヤスさんにお願いしたり、さくまあきら師匠に出てもらったりと、僕の仲良しの皆さんにも助けてもらった)、大いに盛り上がり、ラストには「実行委員長」として、一本木蛮さんとステージもやらせて頂いて、初めて手掛けた大イベントは、参加者の沢山の笑顔と共に盛況の内に幕を閉じた。
僕は心地よい疲労感と共に、当日一番大変だった外回りのスタッフや警備隊の連中にも声をかけ、自社編集部の打ち上げで美味いビールを飲んでいた。散会となり、自宅の横浜に帰るにはしんどかったので、アクションマン時代からよく泊めてもらっていた石神井の先輩宅に行こうと西武線に乗ったら、やはり前日の寝不足もあり、寝過ごして終着駅へ。やっと来たタクシーに乗り込むと運転手さんが、「いやあ、お客さん、凄い事故だったネェ〜」「何が?」まだ若干の酔いもあってか、言葉の意味がよく分からないでいると、「大阪行きの飛行機が……」その言葉で酔いが一気に引いた。すると、「あ、ラジオでやってるよ」と運転手さんがラジオをつける。ちょうど乗客名簿をアナウンスしていた。「大島久さん。この方は歌手の坂本九さんです」 オォッ、一瞬僕の知る名前は過ぎたと思って安心しかけた刹那、記憶にも新しい名前が発表された。
そう、それは、当日、外注編集部がゲストとして呼んでいた漫画家さんの本名だった。ほんの数日前、いや、前日だっただろうか? 外注編集長から例によって、「新幹線の帰りの切符取っといて」と連絡があった。お盆の真っ最中である。すぐには取れず、僕の上司が早朝から水道橋駅のみどりの窓口で数時間並び、何とか間に合う時間に獲得出来た。
ところが、その時の編集長の話では、「飛行機の切符取れたから要りません」なので、上司が再び駅へ行き払い戻しをして、僕がその方に交通費を手渡しした。
「スミマセン。新幹線代分しかお支払い出来ませんが」「いいえ、ウチの父が勝手にやった事なんで気にしないで下さい」「どうぞお気をつけて」「有難う御座います」
僕より2、3歳ぐらい上だったろうか、品の良い素敵な女性だった。まさか、その数時間後に……。ゲスト名簿を管理していた為、彼女の本名を覚えていたので、乗客名簿の名前を聞いた時の驚きとショックはなかった。
先輩の家に着き、上司に即電話。まだ携帯の時代ではない。電話口の上司が一言、「乗ってたのか?」 上司も大変だったと思う。イベントの責任者として、翌日一番で御巣鷹山の麓に作られた遺体安置所に行き、遺族に会って頭を下げたそうだ。
そして、彼女を呼んだ外注編集長のプロダクションにも電話をした。編集長は打ち上げに行ってるそうで、留守番の人に事情を話すと、第一声が「ドッカーン」だった。相当なショックだったようだ。僕が自分の居場所の連絡先を伝えると、深夜に編集長から電話が来た。「貴方達がもっと早く新幹線の切符を取ってれば、こんな事にならなかった。貴方達が殺したようなもんだ」と言われた。若干24歳にして突然人殺し呼ばわりされ、何が何だか分からず、涙が溢れてきた。後で聞いた話だが、ゲストのオファーをした時、娘さんを大切にしていたお父様が大反対していたのを「私が責任を持ちます」と編集長が説得して連れ出したのに、帰りの新幹線のチケットが遅れてたんで、「早く帰って来い」と、お父様が飛行機の切符を手配されたという事だった。なので、「自分が責任を」と言っていた手前、その感情の高ぶりが此方に向いたのだろうが、此方も堪ったものじゃなかったので、上司に話し、すぐに直接話をしようと思ったが、先方は取材旅行と称して、事故の2日後にはアメリカのコンベンションに行ってしまっていた。
精神的にもかなり落ち込んだけど、先輩の「誰が悪いんじゃなく、飛行機が落ちた事が悪い」の言葉で何とか立ち直り、その後も、いろんな形でイベントを続けているが……。あれから40年。一つの節目を迎えたので、今までトークライヴでは何度か話した事もあったが、こうして文章にまとめるのは初めてだと思う。あの日以来、毎年この日は、上司も僕も欠かさずに黙祷だけは続けている。
そして今日も……。合掌。黙祷。